ルカ 12:54 あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。
ある上品なレストランの入り口に1つの石が置いてありました。さほど変わった石とは思いませんでした。しかし、レストランの入り口の正面に飾られています。きっと何か意味がある石に違いないということになりました。もしかすると隕石か何か。いやどこかの遺跡からの発掘した石かもと話しは盛り上がりました。するとトイレから帰ってきた少年がそれを持っていきました。レストランの人に聞いたところ、きっとそこに置いてトイレに行ったのでしょうとのことでした。なんだかやられたなと言う気分でした。ただの石ころだったのです。
イエス様は群衆にむかって一つの問いかけをされました。群衆は、イエス様のみ言葉を聞き、奇跡の業を見てきました。それがあるということは、神様の国が到来しているということです。しかし、それを群衆は見分けることができませんでした。自然現象は見分けることができるのにと言われたのです。「実際そのとおりになる」という言葉から、「なぜ」という問いかけが浮かび上がってきます。
よく「あるがままにみる」という言葉を聞きます。たしかに「あるがまま」にみることは大切なことですが、これがとても難しいものです。ある本に以下のように書いてあります。「人は誰しも、自分は客観的だと考え、自分こそ世界をあるがままに見ていると思っている。そして、ほとんどの場合、他人は枝葉末節に埋もれており、自分だけは大所高所から状況を把握していると思いこんでいる」。自分だけの味方で「あるがまま」ということでは客観性に乏しく、それは本当の「あるがまま」ではないということです。ひとつの事柄に「あるがまま」はたくさんあります。それを認め合うことが客観性ということになります。自分だけの「あるがまま」ではなく、多くの「あるがまま」があることを知ることは大切です。
イエス様は、人は自然現象のしるしを見分けることができるのに「今の時を見分けることを知らないのか」と言われました。あるがままにみてきたことの知恵を集めると、確かな情報が得ることができます。しかし、その知恵をつかって時を見分けるためには、信仰の目が必要となります。キリスト者は信仰によって「あるがまま」に見ることができます。それが時を見分けることになるのです。
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