1テモテ 1:7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
テレビ局のアナウンサーにお会いしました。アナウンサーは話をするプロなので、話の伝え方について少し教えていただきました。はじめは「どんな伝え方をすればよいか」を聞いていました。ところが、途中からディレクターさんもこられ「どんな伝え方が、いちばん伝わらないか」という話になりました。お二人とも、原稿を理解していないで読んだニュースほど伝わらないという意見でした。ニュースはただ原稿を読めばいいものではなく、本人が本当に理解できているかどうかで、人への伝わり方が違うそうです。
パウロは「ある人々」の異なる教えと対決するために、若きテモテをエフェソに残しています。また「作り話や切のない系図に心を奪われた入りしないように」と勧告をしています。これは、ユダヤ教的な考えや教えをもとにした異端(グノーシス)との戦いがあるようです。パウロはテモテに対して、彼らの主張が伝わらないのは、福音を理解していないことによると教えています。
イエス様の言葉はときには理解しがたいことがあります。神様の言葉なので当然のことですが、よくよく読んでみると意味が通じないこともあるのです。その関係は図式化するとどうなるのかと思うこともあります。その一つに次のような言葉があります。ヨハネ福音書のなかで「わたしが父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい」とイエス様は言われました。これは頭ではとうてい理解しにくいことだと考えていました。父なる神様の中にイエス様がおられ、イエス様の中に父なる神様がおられるという、いったいどんな関係なのかと。どっちの中におられるのか、両方ってありうるのかと。その関係がなんとなくわかった出来事がありました。先週のことでした。鏡をみてフト考えました。「いつのまにか母にそっくりになってきたな」と。ちょっと小太りの体型。顔の輪郭。そして笑顔まで似てきたなと思ったのです。もっとも、家族からみれば「おばあちゃんとうり二つ」だそうです。実は、母の存在の中に私をみることができ、私の中に母をみることができるのです。そこには「つながった命」ということだけがあるだけです。理解するとはむずかしいことです。
パウロはテモテに「律法の教師でありたいと思っている」ことについて注意をのべています。律法の教師になるには、律法を理解していなければなりません。律法を理解するとは、律法が与えられた真の意味を理解せねばなりません。一番大切なことは福音を理解し、そこから律法を学び直すということだと思います。何のために律法があるのかを理解できるものが教師としてふさわしい人物なのです。
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