マルコ 14:32 「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
「日本人のスケジュール帳」という文を読みました。そこには「空白」や「間」がないということでした。とにかく忙しく、仕事の予定、プライベートの予定、ある人はペットの予定などびっしり書かれている。いつもスケジュール帳は真っ黒という人が多いようです。それを見てある人は「まるでスケジュール帳に空白はあるのを恐れているみたいだ」と言っていました。私たちの健康にとって、生活の中での「空白」や「間」は必要だと言われています。その何もない空白や時間の中での出会いが、人を感動や平安へと導いていくのだと言えます。
イエス様は十字架の死に向かわれる前に、ゲッセマネの園で祈られました。そのとき、汗が血の滴るように流れたと聖書はしるしています。神様と向かわれた瞬間でした。その「間」弟子たちに共にいるように言われたのです。共に祈りなさいでもなく、助けてくれでもなく。ここに座っていなさいといわれています。この祈りの時間の中で、何もせず座っていなさいといわれたことに大きな意味があるように思えます。
牧師の数が減ったとはいえ、これはあるべき姿ではないというのが実感です。ところが、ちょっと恵みでもありました。不思議なもので、宣教が過酷なほど神様が大切なものをくださるのです。ある時、木曜日の朝早く益田へ向かいました。高速で戸河内まで走り、あとは191号線をひたすら益田までの道のりです。これが本当に気持ちの良い時間でした。三段峡を通り抜け、まだ桜が満開の山道を走ります。対向車もなく窓をあけて小鳥のさえずりをききながらの運転です。忘れていた何かを思い出させてくれました。その何かとは「ゆったりとした時間」です。途中ゆとり時間があったので、「美都温泉」につかり、日本海丼(海の幸いっぱいの丼)を食べました。とにかく時間がゆっくりと流れていくのです。益田教会では大好きな礼拝をし、旧知の信徒の方々と話し、また山道を走って帰りました。どうしてこんなに楽しい旅なのでしょうか。たぶん、大好きな礼拝のために出掛けていくということ、神様が造られた自然に中にいるということ、そしてイエス様がともにいてくださるということ。それにもまして時間があるといことでしょう。ゆっくり時間をかけながら、イエス様と話す時が与えられました。
イエス様も「わたしが祈っている間」と言われました。十字架の死へ向かわれる時、「空白」「間」を弟子たちに与えられたのです。「座っていなさい」と言われた弟子たちは、そこで神様との時間を共有したのです。たくさんの予定やスケジュールの中で、どのくらいの「空白」をとれるでしょうか。あえてその時間をとることで与えられる恵み、神様と共にいる平安を考えてみたいと思います。
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