ヨハネ 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
日本キリスト教連合会の研修会には、他教団の牧師・信徒の方々が参加されます。朝の礼拝のみは、カトリックとプロテスタントは別れて行います。その他は一緒に研修をしています。休み時間のことでした。ある福音派の牧師さんが教えてくれました。「私の先生は、聖書通読に命をかけておられる。なんと千回通読を目標としておられる。そして、もう少しで千回達成するそうだ」と。すでに80歳をこえておられるようですが、千回という数字に驚きました。しかし、目標を立てて実行すれば「できる」ものだと感心したのです。
神様を知るのに一番早い方法は、イエス様を知ることです。また、イエス様を知るのに一番早い方法は、聖書を読むことです。聖書はイエス様について証しをするものだからです。しかし多くの人は、聖書そのものに何か力があるとか、聖書を持っていることで守られているような錯覚をしています。聖書を持っていることで救われるのではなく、そこに証しされているイエス様の出来事を受け入れることで救われるという奇跡がおこるのです。
伝道せミナーの5回目は「証しを書く」というのが大切な作業でした。原稿用紙を3枚与えられ、戸惑った方々の多いこと多いこと。皆さんも同じ気持ちになるのではないでしょうか。「証し」を書かされるのだったら来なかったのに。約束が違うなどなど、反応は様々でした。ところが、いざやってみると真剣そのもの。山荘は一時静寂につつまれたのでした。一人一人が真剣に神様と向かい合う時間の、その静けさに感銘をうけました。しかし、その「証し」をグループで発表し、吟味され、教えられつつ気がつけば、なんと神様の導きの豊かさ、深さ、暖かさを感じたのでした。「証し」を書くということは、はじめは困惑するのもかもしれません。何も書くことがないと思うのです。しかし、じっくりと落ち着いて神様と向き合ったとき、これまでの導きに気がつくのです。私を守って下さっている神様をそこに感じるのではないでしょうか。「証し」がない人はいないのです。神様に守られて生きている私たちはその存在自体が証しであり、それを人々に伝えねばおれなくなるのです。
イエス様は、聖書は研究するものではなく、証しを聞くものだと言われました。イエス様についての証しを聞く。み言葉によって証しされるイエス様の出来事を受けとめることです。千回通読をされた牧師は千回、イエス様の証しを聞き受け入れたことになります。この牧師が祝福された人生を送られていることが目に見えるようです。
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