マルコ 6:48 逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
「あなたに見えている景色は、私には見ることはできない」という言葉がテレビから聞こえてきました。同じ方向に共に歩んでいても、所詮「私は私」であって、あなたではないというような意味でした。なるほどそうだなと思います。私たちは一心同体と言っても、私の目はあなたの目にはなることはできないのです。その違いを発見し、受け止め、受け入れるときに新しい見方も出てきます。まずは違いを認めることが、共に生きる上では大切なことです。
イエス様は弟子たちを、ガリラヤ湖の向こう岸に先にいかせました。イエス様自身は祈るために山に登られたとあります。弟子たちしか乗ってなかった舟は、逆風にあい漕ぎ悩んでしまいます。逆風という試練の中で動くことが出来なくなってしまいました。その場所で立ち止まり、恐れてしまいます。その時、イエス様が湖の上を歩いて舟の方へやってこられたのです。しかも通り過ぎようとされたとあります。舟に来て平安を告げられるというより、通り過ぎることによって神様の存在を告げられたのです。
イスラエルに行ってみたいと思ったのは、イエス様の生きたその場所に立ってみたかったからです。すでにイスラエルに行かれた方からは、「あまり夢を抱いていかないほうがいいよ」と言われました。聖所といえば、想像するだけで神様の存在が生き生きしている素晴らしいところに思えます。私の場合はといえば、とにかくガリラヤの地にこの素足で立ってみたいのです。素足でその地に立つだけでいいのです。というのも、初めて中国へ行き、あの大地に立ったとき、「この大地は、イエス様が立たれた地とつながっている」と感激したのです。そのときから実際その場所に立つのが夢でした。どんな空気を吸われたのか、どんな景色を見られたのか。そして、どんな言葉を伝えられたのか。違う景色、聖書の景色を見たかったのです。。
イエス様は逆風の中、弟子たちの乗った船の横を通り過ぎようとされています。そこに留まらないで一歩先へ進まれるのです。厳しい現実の中、前に進めずにいる弟子たちにあえて一歩前に進むことを教えられました。イエス様が進まれるから私たちも一歩前へ進む。すると景色がすべて変わってくるのです。試練の中にあって私たちが見る景色は危険な風景ばかりではなく、イエス様そのものでもあります。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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