マタイ8:27 いったいこの方はどういう方なのだろう
東京勤務になった頃、土曜日に外出してみました。渋谷はすごいところで、20分もいたら息苦しくなってしまい、そそくさと帰ってきました。渋谷で、ある読者モデルの一言が100億円の効果が生むということを聞きました。この人はいったどんな人だろうと思い調べてみました。彼女は、家庭では主婦であり、母親であり、ティーズのカリスマであり。なにがこの人の中にあるのか。 彼女のことを特集した雑誌を読んで少しわかりました。彼女があるファッション雑誌の読者モデルであること。自分で情報を収集し、お店に通い、自分で工夫をして発言していくスタイル。つまり、彼女を支持する人に近いということかもしれません。
湖で風と波を静めたイエス様のことをみて、弟子たちは「この方はどういう方?」という怖れにも似た感想をのべています。「いったいこの人は?」と興味を持たせる人がいます。それをカリスマと呼ぶのかもしれません。 私たちの信仰は「この人は何者か」といところから始まります。それがきっかけとなって、導かれていくものです。
神学生のときでした。20歳くらいだったでしょうか。高校からストレートで神学大学に入学し、自分を見失っていた頃です。聖書も神学も何も信じられなくなり、学校の先生や友達へもぶつかっていた時でした。そんな時、神学校のチャペルで説教の順番が回ってきたのです。若かったせいでしょうか、自分の思いをぶちまけてやるとばかりに、どうすればいちばん伝えられるかと考えました。十字架上におられるイエス様にむけて語ってやるぞと。そして、当日は部屋からラジカセを礼拝堂に持ち込み、説教の時にフルボリュームでビリー・ジョエルのオネスティを流したのです。「誠実とはまことに淋しい言葉だ 誰もがあまりに不誠実だから 誠実という言葉を耳にすることは少ないが しかしそれこそあなたから欲しいものなのだ」がチャペルに鳴り響き、そのまま礼拝堂を後にしました。よく退学させられなかったものです。いま思うと大胆というより、何も知らなかった自分を反省しています。でも、そんな自分があって今があるのでしょう。自分とは何者かと言う問いの中で生きていたのでしょう。
「この人は?」と思うとき、その人の中にある何かに触れるのでしょう。私たちはイエス様の「何かに」触れているから、ひきつけられるのです。しかし、その「何か」には生きるために必要なものがあるのでしょう。私たちの働きも神様の業です。ここにある「何か」は、聖なる勤めでしょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>