ヨハネ 9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
ドストエフスキーの言葉に「誰かを愛するということは、神が意図したようにその人を見ること」というものがあります。たとえば家族の誰かを愛すると言う時、その人を一人の個人としてみて、自分との違いを認めることだということです。たいていは相手を見る時、「こうあるべきだ」という見方をします。自分の考えに押し込めようとするものです。しかし、それでは相手を人とみているのでは、モノとしてみているにすぎません。人を人とみることが、愛することの基本だといえます。
私たちは神様を抱くのではなく、神様から抱かれているのです。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。この私をそのまま抱いてくださることがおできになるのです。
イエス様は生まれつき目の見えない人を癒されました。このことで問題がおこりました。癒された日が安息日だったからです。イエス様に癒された人はファリサイ派の人たちから尋問をうけることになりました。その尋問は癒された人を苦しめていきます。最終的には罪あるモノとしかみなされず、追いこまれていきました。そんなときにイエス様に再会し、信仰の告白へと導かれました。イエス様は「あなたと話しているのが、その人だ」と、自分を神であると示されたのです。
「グレース・ハルセンというアメリカの白人女性が、おもしろい実験をした。彼女は生粋の白人だが、薬品によって肌を黒く染め、黒人になりすましたのである。目的は人種差別についての社会的分析。彼女は持ち前の行動力と女性特有の細かい観察力とで、人種差別を身をもって体験しようとした」このような実験をしたのだそうです。この結果は、「ハンセンが黒人に身をついやしてからまず体験したのは、性的な恐怖であったという。つまり、白人男性が黒人女性に対して、いかに性的に横暴であるかということだった」。この実験の結果わかったことは、「人間は普段いかに平板な現実しか見つめていないことをあらためて思い起こさせてくれました。相手の立場に立つことの難しさを思います。私たちは、自分が属している社会的な集団のメガネを通してしか物事を見ることはできません。立場を変えてみれば。まったく違った世界がそこに開けているにもかかわらずです。
イエス様は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と言われました。本当の自分を見て下さる。イエス様を見るとき、私たちは愛されていることを知ります。イエス様が私たちを人として見ておられることがわかるのです。だからこそ、この男もイエス様を人として見ることが出来ました。お互い人として見ることから愛するということがはじまっていきます。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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