ヨハネ 5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
「あなたは落ち着きのない子ね」とよく言われました。落ち着きがないのではなく、いろいろなものに興味があるから絶えず動いていたのだと思います。幼稚園でも「落ち着きのない子」と言われている子どもほど、本当に面白い個性を持っています。絶えず何かに関心を持ち、それをひたすら追いかけているのです。落ち着きがないのではなく、興味がありすぎると言う個性を持っているとみてあげたらいいと思います。
エルサレムにある「ベテスダの池」での出来事です。イエス様は、長い間病気で苦しんでいた人を癒されます。池の水が動いたとき、一番はじめに池に入ったひとが癒されるという伝説があったようです。しかし彼はそこに行くことができず、誰も彼を池に連れていってくれなかったのです。池は間欠泉であったといわれていますが。イエス様は「水が動く」ことではなく、「心の動き」を重視されました。「よくなりたいのか」というみ言葉への「はい」という信仰。まずイエス様から心を動かされる。そしてそのイエス様にむかって心を動かすことを大切にされたのです。これが信仰なのでしょう。神様に対してたえず心を動かしておくことを教えられるのです。
パソコンの前にもう動かない腕時計がひとつあります。まだ電池を交換すれば動くのですが、そのままにしてあります。実はこの時計は、教会で葬儀をされた方のご遺族からいただいたものです。この方とは天に召される数日前に病床でお会いしただけでした。その後なくなる直前に洗礼を受けられました。葬儀をキリスト教で行い、式が終了してから奥様に「主人が使っていた時計です。感謝のしるしとして受け取ってくださいますか」と言われ、喜んで頂くことにしました。その時はまだ動いていましたが、いつのまにか止まってしまいました。何度も電池を交換しようと思いましたが、なんだかできず1時36分でとまったままです。しかし、この時計を見るたびに、その方の人生に触れるようなきがしてなりません。いろいろと思いめぐらしては、きっとこの時計はこの方の人生を知っているのだなと楽しく思えてならないのです。神様がその人生の最後に出会わせてくださったのですが、いまもその人生は神様のもとで続いている。その続いている人生をこの時計が教えてくれるようです。復活の希望がこの時計に凝縮されているように思えます。
イエス様に病を持った人が「主よ、水が動くとき」と言いました。動くことに希望があり、この動くときに救いがあることを指し示す言葉です。しかし、私たちにとって動くのは「水」ではなく、神様の「御心」です。イエス様の御心は私たちに対して常に動いています。止まってはいません。私たちの職場でもたえず共に働く者へ心を動かし、認め合って仕事をしたいと考えています。
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