「熊日新聞に大きく出ていましたね」と多くの方々から声を掛けられました。自分でもあんなに大きく載っているとは驚きました。電話やメールでも励ましていただきました。講演依頼もあり驚きです。大江教会のよき宣伝にもなりました。
今回は東日本大震災のことのみでなく、臨床宗教師の働きへの質問もありました。どうしたら臨床宗教師になれるか。臨床宗教師として病院で働きたいなど。基本は傾聴ですから傾聴を学ぶことからとアドバイスしています。私にとってもこの傾聴は大きな課題です。自分を全否定して相手を全肯定する。それが出来なければ傾聴は出来ないと教えられました。人の話を聞かせていただくことは大変なことです。みな私が話したい、私の話を聞いてもらいたい、自分の意見だけで押し通したいものです。牧師などは常に話す立場にいますから、傾聴することが一番苦手かもしれません。「先生、先生」に惑わされ、聞くことを忘れてしまうのです。
ある本で、傾聴では「人の器」が試されるとありました。何かに悩んでいる人は、その悩み事を相手が受け止められそうにないと感じたら、話をしなくなる。逆に、受け止めてくれそうだと感じたら、自分から進んで話すものであると。被災地の現場でも子どもを津波にさらわれたお母さんが、シスターと目を合わせた瞬間にシスターに抱きつき泣き出したということがあったそうです。そこに「悲しみを引き寄せる力を感じた」というのです。シスターの器がそこにあり、涙を受け止める大きな器だったのです。
神様に祈るのはなぜでしょうか。神様の大きさを、受け止めて下さる愛を、慰めを、平安を感じるからです。そのことが一瞬でわかるのです。私たちも同じだと思います。私たちの器にはキリストの愛があるでしょうか。反省しながら書いております。