牧師生活の中で、いまが一番幸せだなと思います。外へ向けての宣教ができるという喜びでしょうか。実は教会行政の肩書きがなくなったからです。28歳の時から教区常議員の行政を任され、30年間ずっと教会行政の中心に居ました。最終的に本部事務局まで働きを与えられました。その縛りから解放された思いです。現在も伝道部長を任されていますが、来年は若い牧師たちに譲ります。
これまで多くの肩書をいただきました。その度に、自分がその地位で少し偉くなったような気もしていました。自分の能力を過信した時もありました。すべては自分ではなく置かれた地位に力があるのですが。世界会議に出てその事に気がつき唖然としたこともあります。いま想うのは、その地位から退いたとき自分はどう生きていくのかです。また人がどのように接してくれるかです。その時に神様と人に仕え、つながりを持ち、それを次の牧師人生で生かせるかです。その後の人生でも架空の地位と名誉にしがみついて、関係が壊れていく場合もあります。そうなりたくないのです。
箴言16章18節に「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊」というのがあります。人は奢り高ぶり、高慢になる。何か自分が人とは違う偉い者のように錯覚してしまいます。そのような所から言葉を発していることに気がつきます。上から目線の言葉ばかりと思われる。知らないうちに謙遜や謙虚さを忘れててしまう。そんな時にこの箴言の言葉に出会いました。私はあくまでも神様の道具なのです。
すべての肩書がなくなって宣教の現場に出てきたときの喜び。さらにつながりが宣教を生かしてくれる恵み。常に謙遜、謙虚になっておくこと。イエス様が偉くなりたければ仕えなさいと言われたことを思い出しています。