マルコ 8:23 何か見えるか
「目から鱗」というのは、聖書の中にでてくることわざです。これはパウロがダマスコ途上でイエス様に会ったとき、目がみえなくなってしまったことから言葉が生まれました。パウロはアナニアというイエス様の弟子に祈ってもらった時、目から鱗のようなものが落ちて見えるようになったのです。イエス様はパウロの目を見えなくし、また再び見えるようにしてくださいました。この経験はパウロにとってどのような意味があったのでしょうか。見えてきたもの、見えていたものではなく、新しく見ることを教えられたように思います。それでは、私たちには、いま何が見えているのでしょうか。自分の生活でしょうか。それとも、人の罪が見えているでしょうか。それとも、傷つき倒れている人々が見えるでしょうか。見ていること、見えているものは果たして真実なことでしょうか。
イエス様は一人の目の不自由な人に手を置いて「何が見えるか」といわれました。すると彼は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えました。この彼の答えの中に、私たちは何をみるのでしょうか。「人は木ではない。歩いている」というメッセ-ジのなかに暖かいものを感じます。イエス様は彼を見えるようにされ、まず人を見せられたのです。自分の前に生きている人とは誰か。木ではなく人を見せられたのです。
ある教会の方からこんな話をお聞きしました。あるとき道を歩いていると急にお腹が痛くなったそうです。トイレを探していたのですが、みつからず「そうだ教会を探そう」と思ったそうです。すぐに近くに教会を見つけ、トイレを借りようとしたところ教会の玄関に「トイレのご使用はご遠慮ください」と書いてあったそうです。「教会って外に開かれていようで閉ざされているのですね」とのことでした。たぶん教会にもいろいろな事情があってのことでしょう。しかし、なぜトイレが解放できないかを教会が問うてみる必要はあると思いました。結局「何を見ているか」の問題だと思うのです。
イエス様が目の不自由な人にもう一度触れられると、さらにはっきり見えるようになりました。私たちはいつもおぼろげながら人を見ているのかもしれません。それはあたかも木のように見ているかもしれないのです。イエス様の与えてくださる信仰という力によって、人を人と見ることができるようになるのです。その人の痛み苦しみもみえてくるのだと思います。
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