ヘブル 12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
「目的をもって始める」。当たり前のようですが、自分を振り返るとそれが曖昧なときが多いように思います。やっているうちに「目的は何だったのか」と考えることもあります。きっと目的を持って始めるということは、ゴールをきちんと決めておくということです。それにプラスして時間を設定しておくのも大切です。目的と時間さえしっかりとおさえておけば、途中で振り返ることも方向を修正することもできます。しかし、それができません。何が問題なのかといつも思います。やっていることに満足してしまうからでしょうか。
ヘブル書は肉の父と、霊の父を比較させてのべています。肉の父とは、肉体の生命の根源である人間としての父のことです。霊の父とは普遍的な父の事をさしています。それは神様のことです。その霊の父はつねに私たちの益となるように考えてくださる。それが霊の父の目的であるというのです。神様は私たちのゴールがどこかを知っておられます。また時間も知っておられます。全てを知っていてくださるので、安心して身を委ねることができます。もし委ねることができないとしたら、それは神様を信じて従っていないからです。
カーナビを使用するようになって、地図を手に持って調べることが少なくなりました。というより、地図をみるのが面倒くさくなってきたのかもしれません。目的地を設定し、あとはナビにまかせて走るとそこに着くのです。ところが目的地をきちんと設定することを間違うと、とんでもないことになります。あるとき、温泉名を間違えて設定したことがありました。目的地に近づくにつれて「何か変だな」と思いつつ、しかしナビを信じて走りました。結局到着した目的地はまったく違う温泉だと、着いてみてはじめてわかったのです。目的地の設定を誤ると、とんでもないことになるということが理解できました。
神様が私たちに試練を与えるのは「御自分の神聖にあずからせる目的で」とヘブル書はいっています。それは私たちの益となるためというのです。目的は鍛えることではなく、神聖にあずからせるためです。そのことが私たちの人生に益となることを知っておられるのです。目的は何かを見失わないようにしておきたいと願います。
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