創世 1:1 初めに、神は天地を創造された。
ある大学の教育学部の授業で「鬼ごっこ」をしていると聞きました。学生たちが子供の頃やったことがないというのです。教育現場に出て行ったときに、鬼ごっこもできない先生になってほしくないという理由かなと思いましたが。本当は学生のコミュニケーションのためだそうです。人と関わることが少なくなって、関係ができなくなってきている学生の関係づくりのためだと言います。しかし、それでも関係づくりができずに「居場所」が定まらない学生がいるといいます。たまには「誰もおっかけてくれない」と泣く学生もいるとか。何が問題なのでしょうか。
旧約聖書は創世記1章からはじまります。その最初には、神様がこの世界を7日間でお造りになった話が書いてあります。神様はその一つ一つを造り、それをみて「良しとされた」とあります。へブル語原典では「美しいと思われた」という意味にもとれます。その後、創造されたものに場所を与えておられます。それが空の中であり、海の中であり、地上であり。それぞれの「居場所の創造」もされるのです。
保育園の講習会で「居場所」の話がありました。子どもの居場所の話ではなく、保育実習生が現場で出会う問題として話されました。最近、現場での保育実習を途中でやめる学生が多いというのです。その理由は、お昼の休憩時間におやつなどは出してあるけれど、だれも構ってくれず「自分の居場所がない」からというものでした。いままで、与えられた居場所にいくだけでよかったので、自分で居場所を創造することができないというのです。ずっと与えられることで育った人たちは「創造」していくことができないという講演でした。自分の居場所を創造してくことは、じつは大変なことかもしれません。そのためには忍耐、努力、協調性、優しさ、明るさなどを求められていくからです。教会も「居場所の創造」がこれからの課題のように思えます。
創世記では「初めに、神は天地を創造された」とあります。まず、神様が「創造された」とでてきます。いままで「天地を」にポイントをおいて考えてきましたが、実は「創造された」に大きな意味がありそうです。そのはじめの行い、そこからすべてがはじまっていくのです。私たちも、神様の祝福と守りの中で、神様から与えられた「居場所」を創造し、そこで愛を実践していくものでありたいと願います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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