ルカ 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
子どもたちが小さかったときよく「~しなさい」と言ったものです。「勉強しなさい」「早く寝なさい」「早くお風呂にはいりなさい」などなど。するときまって子供たちが次のように言いました「いまするつもりだったのに」。このとき「つもり」という言葉は一体何かなと考えてしまいました。確実なことは「つもり」では何もやってないということだけでした。
福音書の中では、ルカによる福音書にのみ「少年イエス」の出来事が記されています。家族の中でマリアとヨセフの子どもとして生活されていた出来事です。神様であるイエス様を、自分の子どもとして育てることは私たちには想像できません。しかし、人として同じように生きてこられた神様であるということを思わされる出来事です。親であって親ではない。これが「つもり」にならなければいいのですが、マリアとヨセフにとってはいつも間違いやすいものではなかったでしょうか。
「ああ、いいなあ」といえば、わりと私たちのまわりでおこっているものだと思います。いがいとそれに気がつかないことの方が多いかもしれません。最近の私が感じた「ああ、いいなあ」といえば、こんな話しをききました。「ある方が急性心筋梗塞で倒れた。幸い処置がはやく一ヶ月ほどで退院された。その方が救急車で運ばれたとき、意識もうろうのなか若い看護婦さんがいきなり質問したそうです。『Aさんはお嬢さんがいますか』。変なことをきくなあと思ったがすかさずうなずいた。するとその看護婦さんはとても優しい声で、『では、これからは娘さんに甘えるつもりで、なんでも私におっしゃってください』といわれた。この言葉で自分は生き返った」という話しです。言葉というものは大変不思議なものだと思います。人を生かす言葉というものを、神様は私たち一人一人に与えてくださっているのだと思います。その言葉が心地よく「ああ、いいなあ」と喜ばせてくれるのでしょう。このようなつもりは大歓迎です。
マリアとヨセフは、イエス様の親でした。それが「つもり」に変えられる一瞬があったようです。イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われています。実際は親であるが、神様からみ子をあずかった存在です。このことをしっかりと自分のうちに確認できないと、親のつもりになってしまいます。マリアとヨセフがこの世では育ての親であろうとも、イエス様は神の子なのです。そしてマリアとヨセフでさえもイエス様の十字架によらなければ救われません。私たちもキリスト者のつもりというのが大変な問題です。しかし「つもり」ってむずかしいなと思います。私たちは「つもり」になっていないか自分を点検してみましょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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