1テモテ 1:7 彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています。
テレビ局のアナウンサーにお会いしました。アナウンサーは話をするプロなので、話の伝え方について少し教えていただきました。はじめは「どんな伝え方をすればよいか」を聞いていました。ところが、途中からディレクターさんもこられ「どんな伝え方が、いちばん伝わらないか」という話になりました。お二人とも、原稿を理解していないで読んだニュースほど伝わらないという意見でした。ニュースはただ原稿を読めばいいものではなく、本人が本当に理解できているかどうかで、人への伝わり方が違うそうです。
パウロは「ある人々」の異なる教えと対決するために、若きテモテをエフェソに残しています。また「作り話や切のない系図に心を奪われた入りしないように」と勧告をしています。これは、ユダヤ教的な考えや教えをもとにした異端(グノーシス)との戦いがあるようです。パウロはテモテに対して、彼らの主張が伝わらないのは、福音を理解していないことによると教えています。
ある本に「一方的にしゃべる人の話を正確に理解するのは難しい」とありました。おもわず「ん~」とうなってしまいました。なぜなら、説教というのは一方的に話すことだからです。それでは、説教は正確には伝わらないのでしょうか。もちろん、牧師によって様々ですが、分かりやすい説教と分かりにくい説教があります。後者の方は、15分~20分の話を一方的に聞くものにはいるのでしょう。しかし、分かりやすい説教といわれるものがあります。単に話が面白いとか、たとえが興味あるとかではなく、主の御言葉が素直に伝わってくる説教があるのです。それはどうしてかを考えてみました。結論として分かったことは、説教の中に対話があるかどうかです。たとえ一方的に聞く説教であったとしても、その中で御言葉と自分との対話がなされたとき、感謝して受け取る御言葉となるのです。
パウロはテモテに「律法の教師でありたいと思っている」ことについて注意をのべています。律法の教師になるには、律法を理解していなければなりません。律法を理解するとは、律法が与えられた真の意味を理解せねばなりません。一番大切なことは福音を理解し、そこから律法を学び直すということだと思います。何のために律法があるのかを理解できるものが教師としてふさわしい人物なのです。そこに神様との対話もあるかもしれません。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>