ネヘミヤ 9:17 聞き従うことを拒み、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、かたくなになり、エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。
東日本大震災救援活動の中で思ったことは「東北の忍耐強さ」です。東北の人と出会えば出会うほど、この「忍耐強さ」を感じます。これまで出会った人たちは「氷が張った田圃で田植えをし」「雪降る海で漁をし」「長い冬は出稼ぎ」そのようにして家族を守り生活してきたと教えて下さいました。耐えて生きることを知っておられるのだと思います。与えられた試練で乗り越えられなかったものはない。パウロが示した聖書の言葉さえきかれました。この東北の方々と共に寄り添う活動は、私たちも忍耐強さを学ばなければなりません。そこで活動するボランティアは、仕えるとは何かを問われています。
ネヘミヤ記はエズラ記と共に読まれるイスラエルの歴史書です。しかしその歴史性に関してはこれまでも多くの議論がありました。もっとも大きなものは、いつネヘミヤとエズラがパレスチナで活動したかと言う点です。しかし、バビロン捕囚から帰還した者たちに対する祈りと罪の告白、神様との誓約がまとめられているのがネヘミヤ記です。イスラエルの人々が罪を犯し、神様を離れようとしても、神様は決してみ捨てられなかったというのです。そこに「忍耐強さ」が記されています。
先週のことでした。車に乗り込むと、一匹の虫がフロントガラスにくっついていました。そこで、車を走らせればすぐに逃げるだろうと思い、動かしはじめたのです。ところが、一生懸命にへばりついて逃げません。スピードをあげるといいかなと、そうしても逃げません。それでは遅くしたらと、そうしても逃げないのです。その忍耐力に感心してしまいました。それからが黙想です。はたしてその忍耐とは何か。むかってくる強風に飛ばされないように必死に耐えている姿に感動をしながら見ていました。はたして、自分にはそれだけの忍耐力があるだろうか。はたして、神様の御言葉に耐える力があるだろうかと、いろいろと黙想していたのです。
ネヘミヤは神様を「罪を赦す神」といっています。そして「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらない」と告げています。その神様に私たちは守られて生きています。忍耐強く私たちを待っておられる神様を信じ、神様に従っていくとき、私たちの進むべき方向は示されていくのだと思います。