ルカ 23:43 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる
大学生の時フィリピンにいきました。スモーキーマウンテンというゴミの山のスラムにホームステイしました。しかし、そこのクリスチャンたちは決して希望を見失っていませんでした。『絶望までいってしまうと、もうそれ以下はないから、あとは希望しかみえないものだよ。絶望のなかでも希望を見ることができる。十字架の上でもキリストは罪人を救われたのだから』この言葉をフィリピンのクリスチャンから聞いてもう30年。そのとおりだと告白することができるようになりました。
本日は、イエス様の十字架上での言葉です。ある意味では、絶体絶命のピンチの時でもあります。ゴルゴタの丘には3本の十字架が立てられました。一人は最後までイエス様を罵っています。イエス様をはじめ二人の強盗にとっては、死を直前にひかえた最後の時でもあります。ジタバタしてもはじまらないのです。
ところがこの箇所はそのような暗い感じはありません。どこかに希望の光りがみえてくるのです。なぜなら、最後の最後で一人の強盗は信仰を告白して救われているからです。しかも、イエス様といっしょに楽園にいるとまでいわれています。確かに死ぬ。しかし、死んでも終りではなく、イエス様を信じているならば、今日、しかもイエス様とともに楽園にいると言われているのです。
カール・バルトの言葉に、「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」というのがあります。この言葉は私の目標です。最後までいってしまうと、神様になってしまいます。しょせん私たちは人間なのですから、神様にはなれません。しかし、だからといっていいかげんには生きていけません。最後から一歩手前というところが大切なのです。
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