広島教会に赴任して2ケ月半になりました。毎日朝夕の祈り、朝礼拝、聖書朗読の通読をしながら、いま教会にとって大切なことは何かを祈って考え、礼拝堂を「祈り」と「みことば」の聖なる空間に新しく創造したいと思いました。
事務局勤務になったとき、土日はお休みでした。信徒の一人として礼拝に参加していました。会衆の側にいることで、信仰者としての自分を見つめなおしました。週日の働きを終え教会の礼拝に参加する。教会の礼拝で恵みに生かされず、苦しみの時になったらどうだろう。み言葉がいただけなかったら。役員会、委員会が長く、実りのない会議だったら。礼拝堂が落ち着く場所でなく、苦痛な空間だったら。これらは事務局に寄せられる信徒さんからの声でした。自分が信徒の立場になったときに理解できました。
そんな時、ローマ・カトリック教会のミサに度々出席しました。ルーテル教会の礼拝に参加するより平安を与えられました。それはなぜだろうと。「聖なる空間」をそこに感じたのです。聖壇の上には聖卓と十字架のほかに目立つものはない。ルーテル教会の礼拝堂との違いでした。置き場所のないピアノや置物などありません。そこに「聖なる空間」を感じました。次に教会の現場に戻った時、そこの礼拝堂を「聖なる空間」にしたい。礼拝堂の聖卓、十字架より目立つものは置かない空間としたいと。
広島教会はどうでしょうか。オルガンの位置があの場所でいいのかなと思いました。皆さんのご意見をください。オルガンの位置をもう一度皆さんと考えてみたい。会衆席の中に移動するのはどうだろうと。この礼拝堂の素晴らしさは皆さんがご存じです。聖卓と十字架が中心である「聖なる空間」が建てられた時のコンセプトでした。皆さんからのご意見をぜひお願いします。この礼拝堂を「聖なる空間」に創造していきましょう。