ヤコブ 1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
ある講演で「道に迷ったらどうするか」というものがありました。大勢で行動しているときは「迷ったところから動かない」ことが正解。一人の時は、家に帰って地図で確かめてもう一度歩き出す。つまり元にもどってということでしょう。それでは「人生の道に迷ったらどうするか」と聞かれました。この2つを合わせなさいと言われました。その場にとどまり、聖書を読み、神様から御言葉の知恵をいただいて歩き出すと。私たちの人生の基本は神様のみ言葉にあります。そこに戻ることによって、人生の知恵をいただくのです。何度でもそこに戻ることができます。
ヤコブは「試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と教えています。なかなかそのように受け取ることは困難です。ヤコブは「試練」を「忍耐」と結び付けて考えています。これはただ単に耐え忍ぶということではなく、神様に服従することを教えているのです。ヤコブも「あくまでも、忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたとろこのない人になります」と言っています。しかも、完全になるためには「知恵」が必要というのです。これはユダヤの伝統にしたがって、知恵は神様から与えられるもの。その知恵を神様から頂いて試練を喜びとせよと言っています。神様の知恵を願えと勧めているのです。
何げなく買った本の中に、次のような一文をみつけました。「私たちはいろんな人から、生きるうえでの知恵を教えてもらう。他人は、自分の知らないことをたくさん知っている。私もこれまで様々な人から多くのことを教えてもらった。そうして最近気づいたのは、『普段実行していない人から習ったことは、身につかない』ということである」。この文を読みながら、大笑いしたあとに、まてよとギクッとしました。根本的なところは、「知恵と知識の違い」ということでしょう。しかし、あらためて自分に問うてみると、普段実行もせずに教えていることはたくさんあるのです。テレビでは毎日、健康のためにと知識をたくさん与えられます。それを人に教えてもきっと身につかないのだとつくづく思います。自分がやってみて本当によかったといえるものしか、人の心を打つことはできないのです。キリストの言葉が身につくのは、神の業がそこにあるからです。なかなか身につかないと思っている人は、身についているのに気がつかないからでしょう。
ヤコブは「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」と教えています。神様は惜しみなく知恵を与えてくださいます。それを祈り求め、試練を忍耐として受け取ることで、キリスト者としてのあゆみが確かなものとなるのです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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