ヨハネ黙示録 3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。
今週は3つの会議が行われ、出席してきました。最近では会議の在り方や、進め方が工夫されて参加する側もきちんと準備が必要ということを教えられています。そのためには事前に資料が配布されたり、重要事項をチェックしたりしなければなりません。ただ会議の中ですこし困ることもあります。それは発言者が「何をいいたいかわからない」という時です。YESなのかNOなのかどっちもあるような発言。自分でも意見がまとまってない発言。実は会議は結構このような発言に振り回されて長くなります。司会者の力量がそこで問われるように思います。
本日の聖書は、ラオディキアの人々の行いを指摘しているものです。その行いは「冷たくもなく熱くもない」といわれています。むしろ「なまぬるい」というのです。私たちに与えられた信仰において、はっきりしなければならないことがあります。冷たい水、熱い湯はどちらとも喉の渇きは潤しますが、なまぬるい湯は口から吐き出すほど嫌われるというたとえです。信仰において、はっきりさせねばならないことは何かを指摘しているのがこの黙示録の箇所です。
飛行機で移動中、団体旅行の人たちにあいます。今回は全国から羽田に集合し、どこかに観光旅行をされるようでした。ところが、その中の数人が、集合場所がわからないというのです。CAさんが一緒にいかれそうな客にきいておられました。すると「自分たちもはっきりわからない。ただ手荷物受取のところに来いということらしい。荷物を預けてなくてもそこに集合かな」と。かなり曖昧でした。団体旅行にとって集合場所は大切な情報です。旅行会社は、それで責任がとれるのかなと心配していました。飛行機が羽田につき、みなさんどうされたかと思っていますと、やっぱり空港施設の外のコンビニ前で迷っておられました。しかも、荷物受取場所に再入場できずに大変困っておられました。これは旅行会社に問題があると思いました。はっきりした情報が一番大切なのにと、自分でも学ばせていただきました。
黙示録はラオディキアの教会に対して、信仰においてはっきりした行いをするようにと指摘しました。曖昧がいいときと、曖昧であってはいけない時があります。その見極めは、神さまの出来事と信仰においては「はっきり」とすることです。そこが曖昧にされていくと、人生も曖昧になる恐れをかんじます。
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