マルコ 11:13 葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
イエス様はベタニアの街で、1本のいちじくの木を呪われました。しかし、この話は私には釈然としないものがあります。イエス様は、いちじくの実がなる季節ではないときに、「実がなっていないか」と思われたのです。それがなっていなかったために呪われ?(聖書では言葉を言われただけですが)たのです。いちじくの木は枯れてしまいました。神様に求められたときにすぐに応えることができる「準備」をしておかねばという話なのだと思います。しかしそれだけではなさそうな気。
広島ではお好み焼きをよく食べます。広島の人たちはお好み焼きが大好きで、いたるところにお店があります。美味しい店の特徴は、鉄板の種類とその厚みにあるようです。20ミリ以上というのがいいとか、銅板がいいとか、いろいろありますが。先日のお店は鉄板を大切にされており、焼くたびに鉄板を綺麗に磨き整えておられました。いつもピカピカです。お店のご主人に「なぜ?たびたび磨くのですか?」と聞いてみました。すると、意外な答えでした。「今日最後の片づけのために」でした。火を落とすときのためだと言われたのです。
私たちの実は何だろうか。信仰の実は何だろう。何のために信仰の実をつけるのか。と考えていますと、いつ神様から求められてもさっと差し出せるためだと気がつきました。いつ天に召されたとしても、さっと信仰の実をさしだせる生き方をしていきたいと願います。