フィリピ 4:10 あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。
お菓子を食べていたら、煎餅袋の裏に『日本食の礼儀』というものが書いてありました。茶碗の持ち方や、お箸の置き方、目の置きどころなど詳しく書いてあるのです。私は食前・食中・食後の箸の置き方など初めて知りました。また箸の使い方の悪い例はたくさんあって驚きました。お箸をなめるのは「ねぶり箸」、同じお菜を続けて食べる「移り箸」、なにを食べようかうろうろするのは「迷い箸」、遠くのお菜に差し出すのは「及び箸」、吸い物のお椀の中に実を探すのは「探り箸」、お料理を箸で突く「突き箸」、お茶碗の中で御飯をかためる「かため箸」。これはみんなやってはいけないことなのです。あらためていわれると、この礼儀は作った方への感謝から出てきているように思えます。食べる側の心遣いかもしれません。
フィリピの信徒への手紙は、パウロが教会からの贈り物にたいする感謝の言葉をしたためた手紙です。この中で「心遣い」ということばがあります。聖書の中に「心遣い」という言葉はあまりありません。もしかするとこの箇所だけかもしれません。この「心遣い」とは何を意味するのでしょうか。パウロは「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」といいます。苦難を共にしてくれたということに対して「心遣い」と言っています。本当に苦しい時、共にいて、共にその痛みを負ってくれたことを「心遣い」と言っています。
テレビで葬儀屋さんの特集をしていました。その中で、ある社長さんの言葉に感銘を受けました。その言葉は「結婚式に必要なものは気遣いでよい。しかし、葬儀に必要なものは心遣いです」というものです。この「気遣い」と「心遣い」の違いが私たちにはわかっているかと問われているようでした。その葬儀屋さんの映像をみていると、出棺のとき喪主の奥様に一つの紙袋を渡していました。その中にはおにぎりが3個と「お疲れがでませんように」と手紙が添えてありました。「心遣い」とはこのようなものかと心を打たれました。わたしたちの教会も「心遣い」を大切にしていきたいと思います。教会生活の中でおこる出来事の中に、ぜひ「主にある心遣い」を持ちたいと願います。
パウロは苦難を共にしてくれたことを「心遣い」といいました。その人と共に歩むとき、その苦しみを共に受け取ることで「心遣い」ができるのです。そのようなホスピタリティを教会はもとめられています。それができる教会にあるために、今日も御言葉を聞き、祈り、仕えてまいりましょう。
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