洗礼者ヨハネの死をしったイエス様は、弟子たちにむかって休みなさいと命令されました。おびただしい群衆に疲れ果てたあ弟子たちへの配慮でもあります。多忙を極めていた弟子たちにとってこの「休む」ということがどのように受け取られたでしょうか。「休む」ことの意味をしっかり聞いみなければなりません。
石巻市北上にある「本地生活センター」を2つめの拠点として支援活動をしています。台湾ルーテル教会が先週やってきたときには、ここで寝泊まりをしながら石巻の泥出し清掃に従事しました。この本地を拠点にしてから、夕食前の楽しみが増えました。それは「追分温泉」に行けることです。山間の静かな温泉地。そこもまた避難所になっています。この温泉につかりゆっくりと1日を振り返るのです。ところが、そう思うのは私だけでなく、多くのボランティアとお湯の中で出会うのです。今日の活動場所、感想、注意事項などの情報交換をします。別々のところで働いても、想いは一つのようです。追分温泉はまさに1日の疲れをいやすボランティア温泉なのです。
イエス様にとって「休む」とは、神様の時間のなかに弟子たちを送り出すことでした。苦しい、悲しい体験を受けた人たちは、それを受け止めて生きることが「休む」ということです。のほほんではなく、じっかり地に足をつけながら「休む」事の意味を見出していきたいと思います。
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