マルコ 2:17 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
イエス様は徴税人レビを弟子として招かれました。徴税人は「異邦人」と多くかかわることから、罪人とされていました。そのレビを弟子として召され、その家に入って食事をされたのです。これに対してファリサイ派の律法学者はイエス様をあざけっています。しかし、イエス様はつねに罪人とされた側にたっておられます。どの立場に立つか、それが問題なのです。
「ボランティアは被災された個人住宅の草取りには派遣していません」。電話の声が聞こえてきました。大震災から半年がすぎました。災害ボランティアの内容も変わってきています。初期の頃は個人住宅の泥出しがおもな活動でした。家具の運び出し、引越の手伝い、庭の瓦礫撤去へと内容が変化しました。最近では田んぼの瓦礫撤去が多いかもしれません。最近は問い合わせで庭の草取りということを頼まれるそうです。しかし、それは災害ボランティアかどうかを問われています。何でもするのがボランティアですが、安易になんでもするわけにはいかないのでしょう。ボランティアは便利屋さんではありません。自分がしなければいけないことをやってくれる人たちではないのです。その辺の見極めは本当に難しいと思います。
イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われました。本当に必要なことは何かを常に問題としておられるのです。病人とされた側にたってみるとき、そこに何が必要かがわかります。ボランティアもどこに立っているかが常に問われるのです。