ヨハネ 4:14 わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるだろう。
ある時、教会フェスティバルに、陶芸サークルの作品として植木鉢を出品しました。そのときオリーブの苗木を一緒に頂きました。大切に育てて1年後また出品しようと楽しみにしていました。ところが、水をやっても成長しません。外に出して、いろいろと世話をしたのですが元気がないままでした。そこで、教会の植木屋さんにどうしたものかと聞いてみました。すると「先生これ枯れています」と言われました。私は、いつ枯れたか全くわかりませんでした。たぶん早いうちにもうドライツリーになっていたのでしょうが、それを知らずにせっせと水をやっていたのです。無駄な努力といったところでしょうか。私としては枯れていることに気がつかなかったことにショックを覚えました。どんなに命の水であっても自分が枯れていたら命の水にならないのでしょう。
イエスが与える水は「永遠の命に至る水」とされ、ヨハネ福音書のテーマである救いと結びつけられて語られています。イエスは、水の話のあと「まことの礼拝」の話をされています。渇きをいやす水はたくさんあるように見えます。しかし本当にいやすことのできる水はたった一つしかありません。それを間違うと大変なことになってしまいます。「まことの礼拝」こそが魂の渇きをいやす唯一の水であり、永遠の命に至る水であることを教えられました。
ある時、たくさんのハナミズキをいただきました。この花は一度枯れかかったのでした。水を変えるのを忘れていあたため、水が腐っていたのかもしれません。一日で元気がなくなってしまったのです。水の大切さを思います。しかも生きた水の大切さです。イエスはサマリアの女に「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。イエスが私たちに与えてくださる水は、いつも流れている水です。流れている水は腐らないのです。もしイエスが与えてくださる水が腐れているのなら、私たちが「そのままに」していたり、「ため込んで」いたり、「忘れたり」しているためだと言えます。それではイエスが与えてくださる水とな何か。それは命のみ言葉(聖書)でしょう。
イエスはご自分があたえる水は「永遠の命に至る水」といわれました。イエスが与えてくださる水は、一時の渇きを潤すだけではありません。その水は魂の渇きをいやす水であり、永遠の命に至る水です。イエスしか与えることのできない水です。このあと会話は礼拝の話に移っていきました。人間が生きるために必要な水とはいったい何でしょうか。その水を間違うと死へと招かれることにもなります。イエスのみ言葉のみが「永遠の命に至る水」であると聖書は教えています。
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