フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。
パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。
こんな話を聞いたことがあります。バス停に老夫婦が立っておられました。おじいさんはかなり怒っていたそうです。バスが遅れていたからです。「ここのバスは時間通りにきた試しがない。今日も15分も遅れている。こんなことなら、この時刻表はいらない」と。よっぽど頭にきたのか、バス停の時刻表をドンドンと叩き出したそうです。すると横からおばあさんがニコニコしながら言われたそうです。「おじいさん、そうカッカくるものではありませんよ。時刻表がなければバスがどれくらい遅れているかわからないじゃないですか」と。このごろ街にでると、カッカきている人が多いと感じます。あせっている人、怒っている人、許せない人が溢れているように思えるのです。ちょっとしたことでも腹を立て、怒鳴り散らしている姿に出会います。なにをそんなに、と思うことが多いものです。「あなたがそんなに怒っても、神様の目からみればすべて理由があるのよ」と言われたことがあります。ゆっくり考えてみると、自分の考えの間違いに気がつかされます。すべては感謝できるのだと。
パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いではないかと思います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>