ローマ 10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
テレビを観るより、ラジオを聞いている時間が多くなりました。テレビは一度見始めるとダラダラと時間を無駄につかってしまうような気がするのです。しかし、本当の理由はコメンテーターという人たちのコメントがいやなのです。ニュースはニュースとして聞きたいのですが、そこに個人的な感想がはいるのが煩わしくなってきました。なんだかコメントに左右されてしまいそうになります。ニュースはラジオで聞く方がよくわかります。
パウロは万人の救いに関して「信仰による義」を主張しています。そのなかで、神様を呼び求めるためには信じることが、信じるためには聞くことが、聞くためには宣べ伝えることが、宣べ伝えるためには遣われることが大切だと教えています。弟子たちの派遣と宣教活動は、福音を伝えることであるとのべています。何を伝えるかははっきりしています。だからこそ余計なもので飾らずに直接伝えることが出来るのです。
教会の掃除機も新型が導入されて久しくなりました。私はめったに掃除機はさわりませんので今まで気が付きませんでしたが、いまの掃除機はたくさんの機能がついていることがわかりました。そのひとつが「ゴミセンサー付き」です。たぶん、そこをゴミが通過したらランプがつき、ゴミがあることをお知らせするセンサーなんでしょうね。礼拝堂の清掃を遠くから眺めていますと、このランプが何回もつくのがわかりました。ここに人がいたことの証のように思えました。礼拝堂にゴミがあるということは、そこで誰かおられた証拠です。
もうひとつ、このゴミセンサー付き掃除機で、私の心を掃除したらどうなるだろうと考えていました。きっと、たくさんランプがつくことでしょうね。つきっぱなしで消えることはないかもしれません。しかし、それが私たち人間の姿だと思います。そう考えると、この掃除機はイエス様じゃないかなと考えました。私たちの罪をイエス様は受け取ってくださいます。ご自分は人間の罪というゴミを一心に引き受けてくださるのです。だから私たちは神様の前に立つことがゆるされるのです。良き知らせを伝えるセンサーになります。
パウロは「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」というイザヤ書の言葉を引用しています。「良い知らせ」とは福音のことです。福音を「グッド・ニュース」といいます。イエス様が語られたみ言葉の中に、ニュースになる要素がすべて入っています。めったに起こらず、人が気になる、身近な出来事。聖書を読むとは、毎日わくわくするような福音にふれることです。
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